本論文では、日本国の全銀行を国有化することが日本政府が抱える国債債務問題を一挙に解決するだけでなく、政府と銀行の両方が持つ通貨制御機能を一本化し、円の供給量を今以上に的確に制御することを可能にするため、これと政府の貨幣発行権を活用した公共投資と累進課税の強化をうまく組み合わせれば、結果として日本社会全体の金融と物価の安定と貧富の差の縮小を期待できると結論付けた。
この結論に多くの方が納得して頂くためには、具体的な政策内容についての更なる議論が必要だが、最も注意しなければならないことは、この方向性に沿った政策がどのような条件下で実行可能であるかということだ。日々多くの方が様々な分野で研究をしているが、経世済民のための学問である経済学においては、その学問的成果が実際に世のため人のためになることが第一に考えられるべきであり、経済学を通じて提言される政策はその実行可能条件まで考慮されなくてはならない。二章で権力形成の過程について論じたのは、本論文の結論を導くのに必要だっただけでなく、本論文で示した政策を含むあらゆる社会政策の実行可能条件を決定するのが、人々の現実の認識と欲望と人々が従う権力だからだ。
それでは、実際に本論文で示した政策が日本社会の金融と物価の安定と貧富の差の縮小に有効だったとして、日本国憲法制資本主義においては、どのような条件でこの政策が実行可能なのだろうか。日本国憲法前文は「主権が国民に存することを宣言し」ており、「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」国会(憲法第41条)は「衆議院及び参議院の両議院でこれを構成」され(憲法第42条)、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」(憲法第43条)から、理論上は主権者である国民が望めば政策実行に必要な法律を作ることができるはずである。また、「行政権は、内閣に属」し(憲法第65条)、「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織」し(憲法第66条)、「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」(憲法第67条)ことに加え、「内閣総理大臣は、国務大臣を任命」し、「その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない」(憲法第68条)から、政策の実行も理論上は国民の願望に叶うものにできるはずである。
しかし、実際には国民が望む政策を実現するには多大な障害が存在する。それらは法律的不備というよりも、人々が日本国憲法という一つの共通した権力を作り出し、それが立法権と行政権を実際に行使する段階で、実務を担う人々が二次的な権力を手に入れることから生まれている。日本国憲法は、立法と行政に司法(日本国憲法第6章)を加えた三つの統治機能を互いに監視させることで権力の暴走を防ごうとしているが、それぞれの実務を担う人間に二次的な権力を付与している時点で、それらの相互監視というものは危うくなってしまう。なぜなら、権力を付与された人々は自身の幸せのために権力を行使でき、それらの人々が与えられた権力をどのように行使するかは彼らの幸せの中身に全く依存してしまっているからだ。そして、彼ら一人一人に与えられた権限は独裁者のものと比べて非常に小さいものだから、彼らに内在する権力が国民の望む政策に反対する豊富な非暴力的および暴力的手段をもった権力と対立した時、彼らのほとんどはその権力に《合》して従うしかないのだ。立法、行政、司法の組織運営を任されている人々がその権力に従ってしまえば、後は雪崩を打つように組織全体がその権力に従うようになる。そうなれば、その権力は日本国憲法制資本主義を変容させたも同然で、日本国憲法を隠れ蓑にしながら独自の自由と平等の制限を日本国に設け、本来の主権者である国民の意見を無力化するのだ。
そもそも、日本の大東亜戦争敗北後にそうした権力が連合国という形で日本国憲法を認めたのだから、実際の日本社会は《ある権力による日本国憲法と独自法の二重規制資本主義社会》だと言うべきだろう。《ある権力》の正体は正確には分からないが、豊富な非暴力的および暴力的手段を持っており、日本国憲法に従わないことは確かだ(注21)。
したがって、本論文で示した政策を実行するには、《ある権力》を私たちに従わせる《合》か《ある権力》との《和》で政策実行の承諾を引き出すしかない。いずれにせよ、私たちはあらゆる非暴力的および暴力的手段を用いて《ある権力》に従う人々の現実認識と欲望とを変化させ、彼らに政策実行を容認させなければならない。
そうは言っても、一国の統治機構を間接的にすべて従わせてしまうような《ある権力》に対抗する手段があるのかという疑問が当然あるだろう。確かに、《ある権力》は主にお金と暴力と言葉を使って人々の現実認識と欲望を書き換え、人々の自由と平等に制限をかけているから、一見すると強力無比の存在に思える。
しかし、《ある権力》に従うか従わないかを決定しているのは人々自身だということを忘れてはいけない。私たちは自身の幸福とは何か、そしてそれを得るために何をするのかを自身に内在する権力によって決定することができるはずだ。もしも私たちが、肉体的死よりも精神的死を恐れ、黄金よりも名誉を貴び、他人の言葉に容易く惑わされないのであれば、《ある権力》のもつ非暴力的および暴力的手段をほとんど無力化できるのだ。
いつの日か多くの日本人がそのような精神的態度を獲得し、本論文で示した政策をさらに発展させたものを実行することで、精神的にも物質的にもより豊かな日本社会が誕生することを心から願っている。それは必ず世界中に影響を与え、人類全体をより良い方向へ導いていくだろう。
注釈
(注21)たとえば、Richard A. Wernerが著作『円の支配者』(詳細は参考文献の項参照)のなかで指摘するところによれば、日本銀行は窓口指導によって市中銀行の貸出を操りバブルの形成と崩壊を招いただけでなく、その後の長期不況期における大蔵省の景気回復策に反し、外為市場介入の不胎化政策を用いて信用創造量を減少巧みに操作していたという。この指摘が本当であれば、当時の日本銀行は日本銀行法(昭和十七年法律第六十七号)の第1条「日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保成ヲ目的トスルコト」に違反していたことになる。『円の支配者』の主張が完全に正しいかどうかは別として、日本銀行が政府の意図に反して信用創造量を操作することは可能であり、非常に強力な非暴力的手段として日本銀行を従える権力は、貨幣制度を通じて多くの人々を従わせることができるのだ。そして、『円の支配者』における様々な分析から、実際に日本銀行を従える権力は日本国憲法ではなく別の権力であることが窺い知れる。その権力が何であるかは分からないが、少なくともそれは日本国民の幸せを考えて意思決定しているわけではない。