一節:日本の資本主義社会の特徴
資本主義を《個人があらゆるものを自由に所有、生産、消費、分配できるという思想》と定義する。資本主義の最大の特徴は、所有、生産、消費、分配における個人の自由だ。この自由のために生じる個と個の争いを治めるために交換や律令といった制度が人類の歴史のなかで生み出されてきた。個人の自由がどのような制約を受けるかによってその経済体制は様々に違った呼ばれ方をするが、第一に個人の自由を尊重しようという姿勢は資本主義社会に共通している。
一方、個人の自由を追求することで生まれる弊害に対処するために、平等原則を第一義に据えたのが社会主義だ。社会主義は《社会に属するすべての個人が同一の権力にあらゆるものに対する所有権と分配権を認める思想》と定義できる。社会全体が認める権力が、社会の全構成員に生産義務と生産された財を適切に分配すれば、全構成員による搾取のない平等な消費が達成され、個と個の争いのない理想郷が出来上がるというのが社会主義の青写真であった。
しかし、そこには誰が平等を実現するのかという視点が欠けていた。個と個の平等を国単位で行おうと思えば、必然的に個の自由を抑え込むだけの絶対的存在が必要とされるため、絶対的存在もしくはそれに多大な影響をあたえうる者は、平等原則から外れた特権階級となり、その時点で既に社会主義国家のすべての構成員に対する平等原則は成立しえないのだ。また、特権階級によって決定された財の配分が人々の需要と一致しなかったことや、非特権階級の中でも個々人の能力差にかかわらず所有、消費、生産が平等だったため、個々人の労働生産性が低下したことで、皆が等しく貧乏になってしまった。
ここでは、社会主義が孕む数々の問題の詳細な分析を割愛して、資本主義の特徴を中心にして論じていく。資本主義と社会主義という一見すると対立する二つの経済体制は、実のところ、どちらも自由と平等という時として矛盾する二つの要素を如何なる権力によってどのような制限下で両立させるかという思想だ。そして、幸せを現実に満足した状態と定義すると、どちらの目的も誰かが幸せになることだ。
したがって、どちらにおいても、誰が幸せになるべきか、そしてその誰かが幸せになるために自由と平等をどのような制限下に置くかを権力が決定する。資本主義の特徴を考察するために社会主義と比較したのは、この《権力が誰かの幸せのために自由と平等を制限する経済体制》を論じるためである。この点に関しては、資本主義も社会主義も一致しているのだ。
それでは、権力はどのように形成されるのだろうか。まず、一人の人間しか存在しない社会の場合を考えてみよう。そこではその人だけが権力を決定する権利を有しており、幸せにする対象もその人自身しか存在しない。したがって、その人は自分自身を幸せにするものを権力として選び、自由と平等に制限を設ける。まず、権力を選ぶという思考をしている時点で、その人自身に権力が内在していることは間違いない。そして、この自身に内在する権力こそ、人が自由という概念をもつ所以である。
ところが、権力はその人自身だけでなく、他の物にも付与されることがある。たとえば、その人が山に狩りに行くべきか海に漁に行くべきか決めかねているとき、神仏に伺いを立てたりするかもしれない。神仏に山と海の両方へ行くべきだと告げられたとすると、このときその人は権力を神仏にも付与し、自分自身の自由と平等に制限を設けているのだ。この場合の平等とは、目的地として山と海を平等に扱うということだ。そして、この時点では自由と平等は対立することなくその人の幸せを実現している。
しかし、もし海が荒れていて漁をするには危険が伴う状態だったらどうだろうか。その人は危険を避けるため海に行きたくないが、同時に神仏という権力が設けた自由と平等の制限に従うべきだとも考えるかもしれない。このとき、自身に内在する権力とそれに付与された権力の対立と、自由と平等の対立が起きるのである。もちろん、その人は神仏という権力が定めた自由と平等の制限に従うことも、自身に内在する権力を介して神仏への権力の付与を取り止め、海に行かないことを選ぶこともできる。いずれにしても、それはその人がより幸せになるために選択をした結果である。
ここで、幸せは現実に満足した状態であることを思い起こせば、現実の認識と欲望が人と時と場合によって異なるため、幸せの中身が千変万化になると理解できる。先の例では、前者では荒れた海に漁にでることに、後者では荒れた海を避けることにその人はより幸せを感じているということだ。
すると、現実を認識して欲望を持ち、それに満足するのは自分自身であるから、究極的には自身に内在する権力によって自身の意思決定が行われていると言える。しかし、二次的な権力が自身の幸せのために作り出された瞬間から、それは現実の認識と欲望に影響を与えるようになる。
つまり、最終的に自身の意思決定をするのは自身に内在する権力だが、それとそれによって作られた二次的な権力は相互に影響を与え合い、変容していくのだ。そして、その変容は自由と平等に対する制限を変化させる。たとえば、ある人に内在する権力が、漁に出て失敗した過去への後悔というものに二次的な権力を付与し、漁に出ることを当分は控えるようにその人自由と平等に制限をかけたとすると、自身に内在する権力はこの制限を受けている間に漁を好まないように変容していくかもしれない。あるいは、漁に出たいという欲望がかえって強くなるかもしれない。いずれにせよ、自身に内在する権力が二次的な権力の影響を受けているのが分かるだろう。
それでは、二人以上の人間が存在する社会における権力の形成に移ろう。一人の人間しか存在しない社会と同様に、二人以上の人間が存在する社会でも各人に内在する権力とそれが作り出す二次的な権力があり、それらが相互に影響を与え合いながら変容し、各人に対して自由と平等の制限を設けている。これに加えて、二人以上の人間が存在する社会では、各人が従う二種類の権力に他者が従う二種類の権力が影響を与えるのだ。そして、互いに影響を与えあう無数の権力が定めた無数の自由と平等の制限のもとで、各人は自身が最も幸せになるように意思決定している。
すると、《権力がある人を幸せにするために設けた自由と平等の制限に各人が従うことが、各人にとって最も幸せだという状態》が発生しうる。
たとえば、ある国の王が王自身を幸せにするために自由と平等を制限する王国の掟を設けたとする。このとき、国民は王が従う権力によって制定された王国の掟を守るか、別の権力に従って別の自由と平等に対する制限を受ける、つまり掟を破るか選択することになる。選択を決めるのは各国民に内在する権力だ。もし、王の欲望が《すべての国民が衣食住に困ることない平和な国を作る》という内容ならば、王が従う権力はそれを実現させて王を幸せにするような掟をつくるだろう。実際に掟が王を幸せにしうるものだとしたら、各国民は掟を守るときと破るときとを比較して、より自身の欲望を実現してくれる方を選ぶ。各国民が掟を守るのであれば、それは《権力がある人を幸せにするために設けた自由と平等の制限に各人が従うことが、各人にとって最も幸せだという状態》だ。そしてこの時、王に内在する権力は各国民に内在する権力から二次的な権力を付与されていると言える。
しかし、問題は掟を破るを選ぶ国民が存在する場合である。このとき、その国民に内在する権力は王に内在する権力を認めず、この二つの権力の間に対立が生まれる。この対立は、次の二つのうちのどちらかで必ず解消される。一つはどちらかがもう一方の権力を認めるように変容する《合》で、もう一つは双方が変容して共通の権力を認める《和》だ。
具体例を挙げれば、前者は掟を破った国民の独立を王が認める場合や、掟を破った国民が掟を守るようになる場合で、後者は双方が譲歩して新しい掟を定める場合だ。
前者や後者に辿り着く過程で、対立する二つの権力は可能な限りのあらゆる非暴力的手段も暴力的手段も行使しうる。非暴力的手段とは、話し合いや金銭を絡めた取引や人間関係を利用した懐柔などで、暴力的手段とは、逮捕や監禁、脅迫や殺傷などだ。
このように二人以上の人間が存在する社会では、一人の人間しか存在しない社会と違い、ある人に内在する権力やそれが作り出した二次的な権力に対して、別の人に内在する権力が二次的な権力を付与することがあるだけでなく、複数の権力が対立することもあり、この二つが組み合わさることで、ある権力に従う人々と別の権力に従う人々の間に対立が生まれる。対立する二つの権力は、可能な限りのあらゆる手段を行使しながら対立を必ず解消しようとする。この権力闘争を経て、無数の権力は《合》か《和》で一つに統合されていくのだ。
ある権力に従う人々は、ある時点の欲望で異なる権力統合の仕方を比較評価した場合、それぞれの間に幸福度の大小をつけることはできるから、その権力が定める自由と平等の制限にも基づいて自らが最も幸せになるように意思決定を行う。そして、人々の幸せの中身は彼らの現実認識と欲望とに依存し、それらは権力対立が解消される過程で用いられたあらゆる非暴力的および暴力的手段の影響を受けるから、複数の権力の対立が解消した時点で、それが《合》か《和》かに関わらず、統合された権力に従う人々の幸せは実現可能な範囲で最大化されている。
翻って、二人以上の人間が存在する資本主義社会の権力とその形成を考えてみよう。資本主義社会とは、各構成員が自らの欲望を実現させるために、あらゆるものを自由に所有、生産、消費、分配しようとする社会であり、人が自らの意思でより幸せになろうとすることから自然に導かれる最も原初的な社会形態だ。するとそこでは、必然的に同一のものに対して複数の人間が所有権を主張することになる。ここに複数の権力の対立が発生し、対立の発生とその解消はすべての人が一つの権力に従うまで繰り返される。この一つに統合された権力が何であるかによって、自由と平等の制限と意思決定の方法が変わってくる。それがある一人に内在する権力の場合は独裁制資本主義、複数人に内在する権力の場合は共和制資本主義、なんらかの神仏の場合は神権制資本主義、社会主義の場合は官制資本主義、多数決原理の場合は多数決制資本主義という具合に資本主義は変容する。
つまり、人類は誕生した瞬間から資本主義に権力を付与したが、資本主義が根源的に内包している個人の所有の自由が原因で人々が対立し、その対立が解消される過程で、資本主義に様々な自由と平等の制限を設けた思想が人々の従う二次的な権力となったのだ。
それでは、どのような自由と平等の制限を持つ資本主義に現在の日本人は従っているのだろうか。現在、すべての日本人が従うことになっている権力は日本国憲法で、日本国民および全人類が幸せになるために、日本国内のすべての権力の自由と平等を法律という形で制限している(注10)。したがって、日本社会は日本国憲法制資本主義社会と呼べるだろう。
ただし、日本国外の権力と日本国内で日本の法律を犯す者が存在することから、現在も日本国憲法という権力は複数の権力と対立しており、日本社会の形態は常に変容し続けていることに注意が必要だ。この事実は非常に重要で、本論文で提示する日本政府の財政危機の解決策を実行する上で障害が存在することを示唆しているが、まずはその解決策を示したいので、その障害についてはあとがきで記す。
さて、日本国憲法制資本主義社会では、日本国憲法による自由と平等の制限内において、社会に属するすべての権力はあらゆるものを所有、生産、消費、分配できる。日本国憲法第29条第1項「財産権は、これを侵してはならない。」と同条2項「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」、そして同条3項「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」とで私有財産の所有が認められていると考えられるが、注目したいのは複数人が所有する私有財産を互いに分配し合う交換という行為だ。
交換が成立するためには、複数人の間で約束した通りに私有財産を分配し合うという信用が必要不可欠だ。この交換が行われる場所が市場であり、交換を円滑に行うために使われる媒介がお金である。原始的な物々交換を考えれば、お金は決して交換のために必要不可欠なものではないが、ある市場の参加者がお金を使うことで自身をより幸せにできると考えたとき、その市場ではお金が交換の媒介として機能する。一般にお金は価値交換機能、価値貯蔵機能、価値尺度機能をもち、これらの機能をより効果的に発揮するものがお金として使われる。そして、お金が交換の媒介として機能している市場において、ある人が所有しているものの価値はすべてお金で表すことができる。
交換という行為に注目した理由は、それがお金を生み出し、そのお金が使われる市場が拡大するにしたがって、お金が所有、生産、消費、分配の多くを決定するようになったからだ。すなわち、交換はお金という権力を生み出し、その権力の下ではお金を持つ者はより自由になり、お金を持つものと持たざる者との間に所有、生産、消費、分配、機会の不平等が生まれ、人々が所有するお金の価値に基づいて人々の自由と平等が制限されるようになったのだ。
そのため、権力対立を解消する際に、お金はそれ自体で強力な非暴力手段として機能するし、別の手段を所有するのにも使えるようになった。したがって、日本国憲法制資本主義社会においてお金がどのように扱われているが、そこに生きる人々の自由と平等、さらには日本国憲法と別の権力との闘争に極めて大きな影響を及ぼすのだ。
この観点から見れば、日本が現在直面している日本国債累積問題は、国債購入者に対する自由と平等の制限が一時的に強まるが、最終的には非常に緩くなり、国債購入者が権力闘争において非常に強力な力を獲得するという問題も孕んでいる。一時的に自由と平等の制限を強めた代償として獲得した力なのだから公正な取引であると言う人がいるかもしれないが、多額の日本国債を購入している銀行のお金は預金のごく一部と預金準備制度を根拠にして銀行が作り出したものだし、政府が通貨発行権を活用すれば国債を発行する必要がないことを考えれば、それは必ずしも公正とは言えない。
注釈
(注10)日本国憲法前文に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあることから、日本国憲法という権力は日本国民のみにとどまらず、全世界の国民を幸せにするために、日本国の自由と平等を制限すると言える。