人類の歴史を通して様々なお金が使われてきたが、日本国憲法制資本主義社会においては、主に円という価値単位をもつ貨幣、日本銀行券、電子マネーが使われている(注11)。
これは決して円以外のお金を使うことが禁止されているからではない。繰り返しになるが、一般にお金は価値交換機能、価値貯蔵機能、価値尺度機能をもち、これらの機能をより効果的に発揮するものがお金として使われるから、円通貨以外でも人々が所有物を交換する際に十分効果を発揮すると思うものであれば、何でもお金になり得るのだ。それでも専ら円がお金として使われる一つの理由は、日本国内で円を使えば売りに出されている所有物と絶対に交換できるという信用があることだ。その信用を作り出しているのは、日本国憲法の下で国会が制定した法律、それに従って円通貨を発行する政府と日本銀行への信用、そして実際に円が通用する大規模市場があることだ。
しかし、お金とものが交換できるという信用だけならば、ドルやユーロといった外国の通貨でも良いことになる。実際、ハイパーインフレや政府の崩壊で自国の通貨が交換に使用できなくなり、代わりに別のお金が使われることは起こり得る。だが、それが起こらないのは、円を使う人々が円の暴落も日本政府の崩壊も起きないと思っているだけでなく、日本政府が円で税金を徴収しているからだ。日本国で生活をする人々は、必ず円で税金を納めなくてはならないので、絶対に円を使わざるを得ないのだ。
このように、日本国憲法制資本主義で主に円がお金として使われる背景には、日本国で経済活動をする人々が日本国憲法という権力に従うという前提があり、その権力の下に国会が立法し、政府と日本銀行が円を発行し、政府が円の暴落を防ぐと共に円で税金を徴収することで、円がお金として使用される大規模な市場が出来上がっているのだ。
この事実から、円がお金として通用する根源的な理由には日本国憲法という権力があると言えるのだが、これは現行の管理通貨制度に移行したからである。兌換通貨制度を採っている場合、円がお金として通用するためには、日本国憲法の権力だけでなく、円の価値を保証する担保が必要となる。それは金本位制なら金、銀本位制なら銀、ドル本位制ならドルだ。兌換通貨はいつでも必ずその担保と交換可能でなければならないから、国が持つその担保の価値の分しか通貨を発行することは出来ない。すると、経済変動に合わせて担保が用意できなければ、適切な量の通貨を供給できずに不況に陥りやすい。
たとえば、もしも日本が現在でも金本位制を採用していたら、2011年3月11日に起きた東北大震災からの復興のために多額の資金を用意しようと思っても、すぐに必要な額の金隗を用意することは金の希少性からいって難しいため、国が増税をするか借金するか資産を売却するかで復興資金を賄わなければならない。
全国的な増税を選べば震災の被害を受けた国民にさらなる負担を強いることになるし、被災地以外の地域のみの増税を行っても、被災者以外の負担が増えることは明らかで、国全体の通貨供給量は変わらなくとも、被災地以外の通貨供給量が一定期間減少するため、復興需要を除けば消費も生産も落ち込むことは言うまでもない。
また、借金を選べば、増税と違って短期的な経済への悪影響は無いが、長期的には借金の利息分だけ増税以上に国民の負担が増えることになる。実際、現在の日本政府が陥っている問題がまさにこれである。政府は公共事業のために借金をしたものの借金を返す当てがなく、かといって国民に税負担の増加を強いるわけにもいかず、結局は借り換えを繰り返して問題解決を先送りにしてきた。さらに、阪神大震災や積極財政政策のために新たな借金の必要が生まれ、政府の債務残高が見る見るうちに膨れ上がってしまった。借り換えを繰り返せば返済時期を先送りにすることは出来るが、結局いつかは借金を返さなくてはならないのである。さらに、利息の付く借金の性質上、借金の額面は返済を先送りにすればするほど増加していくのである。
もちろん、インフレ率が利子率よりも大きければ、政府の借金の実質負担が減少するけれども、同時に資産家の債券の実質価値も減少してしまう。ここで語られる政府の借金も資産家の債券も共に国債のことであるから、資産家は債券の含み損を恐れて国債を売ってしまうから、政府が国債による更なる借り換えを行おうと思えば、国債を買ってもらうために既発国債の価格を下げると同時に新規国債の国債金利を上昇させるしかない。結果として、高いインフレ率による政府の借金の一時的な実質負担減少と引き換えに、借金の額面が上昇してしまい、状況をさらに悪化させてしまっているのだ。それだけではない。既発の国債の価格が低下することによって、国債を大量に保持している国内の金融機関の評価損が発生し、最悪の場合は債務超過で破綻してしまう。
また、新規国債の金利が上昇することで、それに連動した住宅ローンの金利も上昇し、ローンを払うのに苦労する国民が発生する。もしもローンを払いきれなければ家を手放さざるを得ない状況も生まれ、その件数が増えれば不動産の価値も暴落する。さらに、金利の上昇で資金を銀行から借りている企業や個人の債務も増加してしまう。ここまで来てしまうと、企業の連鎖倒産や多くの国民の破産をもたらす大不況になってしまっている。
すると、この中では資産を売却するという選択が最も良い選択になる。なぜなら、資産を売却するとは所有物をお金と交換することであり、交換が成立している限り、売り手も買い手もより幸せになっていると言えるし、増税や借金と違い、国民に金銭的な負担が残ることはない。ただ、問題は何を売るかだ。極端な話、日本の国有地を売ろうとして国民で買い手がつかなかった場合、外国人に売るしかなくなる。背に腹は代えられぬということで泣く泣く売った土地が後々問題を引き起こしてしまう可能性もある。資産を売却する際には国民限定で買い手を募るなど、様々な注意が必要となる。
なお、国の資産を担保に無利子で借金をするという方法も資産を売却するのと基本的な経済効果は同じである。期限までに借金を返せば資産を取り戻すことができるが、この時もどうやって借金を返すかが問題となり、国民に更なる金銭的負担を強いないためには資産を手放すしかなくなる。
さて、上の例から分かる通り、兌換通貨制度を採用している限り、資産の売却もしくは質入れという手段以外は国民に直接的な金銭的負担増を強いることになる。
では、現在の日本が採用している管理通貨制度ではどのような違いがあるのかを次に論じる。
復興資金を得るために増税や借金や資産の売却をするのであれば、国民の金銭的負担がどうなるかという点で、兌換通貨制度と全く何も変わらない。しかし、日本の管理通貨制度において円は不換通貨であり、日本国憲法の権力を背景にしていくらでも発行することができるので、政府の貨幣発行権を行使して負債の伴わない復興資金を捻出すれば、直接的な金銭的負担は国民にも政府にも発生しないのである。
この《政府の貨幣発行権を行使して負債の伴わない復興資金を捻出する》という発想を私が知り得たのは、大阪学院大学の丹羽春喜名誉教授のおかげである。氏の論文「巨大地震活動期に備えるマクロ政策体系の構築 ――「第3の財政財源」確立の方法論を中心に――」(注12)の2頁2‐6行目には、「好都合にも、わが国の現行法「通貨の単位および貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年、法律第42号)では、「政府貨幣」(日常的に用いられているコインのほか、記念貨幣、政府紙幣をも含む)についての「国(中央政府)の貨幣発行特権」(seigniorage権限)が無制限に認められており、しかも、その発動は、政府の債務とはされず、「造幣益」は、正真正銘の歳入として、国(中央政府)の一般会計に納入されることになっている。」とある。「通貨の単位および貨幣の発行等に関する法律」(昭和62年、法律第42号)を見ると、第4条第1項「貨幣の製造及び発行の権能は、政府に属する。」とあるだけで、同法には貨幣発行額の上限や発行額が負債に計上されることを示す文言は一切ない。すなわち、《政府の貨幣発行権を行使して負債の伴わない復興資金を捻出する》ことは可能なのだ。
具体的には、同論文2頁11-17行目にある通り、「この無限大の「国(中央政府)の貨幣発行権」のうちの」「限定された所定額分の「政府貨幣発行の権利」を、日銀法の第4条、第43条、および、第38条の規定に準拠して、政府が日銀に売却すればよいであろう。その代金決済も、ただ単に、日銀が政府の口座にそれだけの額を電子的に振り込みさえすれば、それで済む(日銀券で決済する必要などはない)」のだ。
確かに、日本銀行法の第4条「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない。」、第43条「日本銀行は、この法律の規定により日本銀行の業務とされた業務以外の業務を行ってはならない。ただし、この法律に規定する日本銀行の目的達成上必要がある場合において、財務大臣及び内閣総理大臣の認可を受けたときは、この限りでない。」、そして第38条第1項「内閣総理大臣及び財務大臣は、銀行法 (昭和五十六年法律第五十九号)第五十七条の五 の規定その他の法令の規定による協議に基づき信用秩序の維持に重大な支障が生じるおそれがあると認めるとき、その他の信用秩序の維持のため特に必要があると認めるときは、日本銀行に対し、当該協議に係る金融機関への資金の貸付けその他の信用秩序の維持のために必要と認められる業務を行うことを要請することができる。」と同条第2項「日本銀行は、前項の規定による内閣総理大臣及び財務大臣の要請があったときは、第三十三条第一項に規定する業務のほか、当該要請に応じて特別の条件による資金の貸付けその他の信用秩序の維持のために必要と認められる業務を行うことができる。」によって、《政府の貨幣発行権を行使して負債の伴わない復興資金を捻出する》ための丹羽氏の提案は実行可能である。
つまり、日本銀行法の第1条第1項「日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うことを目的とする。」と同条第2項「日本銀行は、前項に規定するもののほか、銀行その他の金融機関の間で行われる資金決済の円滑の確保を図り、もって信用秩序の維持に資することを目的とする。」に示される日本銀行の目的を達成するために、《貨幣発行権を行使して調達した資金で公共政策を行い、景気回復を図る》という政府の経済政策の基本方針と内閣総理大臣及び財務大臣の要請に従って、日本銀行は限定された所定額分の「政府貨幣発行の権利」を購入し、その代金を電子取引で政府の口座に振り込むのだ。
この手段を用いる際に一つ気になることと言えばインフレである。これに関連して、丹羽氏はさきほどの論文の5頁4-6行目で、「マクロ的総需要政策の不活動という「人災」によって、平成不況発生の1991年から2010年までの20年間に、このようにして失われた実質潜在GDPは、合計7000~8000兆という厖大な額に達している。」と主張しており、さらに「(イ)民間投資の伸び率(年率%)を、GDP成長率(年率%)の1/2と想定した場合」(同論文10頁)と「(ロ)民間投資の伸び率を、平成25年度以降、GDP成長率と等しいと仮定した場合」(同論文11項)に分類したとき、平成24年から《政府の貨幣発行権を行使して調達する資金》を東北大震災からの復興や将来の震災に備えた国造りのための「第3の財政財源」として活用し、10年間で日本のGDPを2倍にするには、「10年間の計画期間の前半では、毎年50兆円台ないし40兆円前後の額を「第3の財政財源」でカバーする必要があるが、計画期間の後半には、その必要額はかなり減り、最終年次の平成33年度では、(イ)表の場合、28.3兆円で足りる。(ロ)表の場合では、民間実物投資の伸び率が大きくなるため、7年目の平成30年度でも25.6兆円で足り、33年度では「第3の財政財源」でのカバーが無くても済む計算になっている。つまり、「第3の財政財源」は、(イ)表の場合では10年分500兆円弱、(ロ)表の場合では同じく10年分として350兆円ほど準備すればよい」(同論文13頁16‐22行目より引用)と結論付けている。
丹羽氏の主張を簡単にまとめれば、政府の無限大の貨幣発行権とあまりに大きいデフレ・ギャップのおかげで、インフレなど気にせず日本は再び高度経済成長期を経験できるというものだ。
グラフ8
しかし、インフレが起きるかどうかはデフレ・ギャップと必ずしも関係しない。グラフ8は同論文3頁からの抜粋で、1970年から2010年までのデフレ・ギャップの推移を表している。このグラフに従えば、1980年から1991年の間も依然として大きなデフレ・ギャップがあるが、本論文一章一節で示したグラフ2から分かるように、この時期はGDPデフレーターと消費者平均物価指数が共に増加している。さらに、1986年から1991年は日本がバブル経済にあった時期だ。バブル経済の形成や崩壊の原因については様々な分析がされているが、一つ確実に言えることは、バブルが形成さる過程で土地や株式に過剰な投資がされていたということだ。そして、その投資をするためのお金が絶対に存在したのだ。投資をした人々は他のものにお金を消費することもできたはずであるが、投資を選んだのである。
Richard A. Wernerの『円の支配者』では、バブル形成の原因は市中銀行が必要以上にお金を貸し付けたことであり(155‐160頁)、市中銀行がそのような行動に出た理由は、日本銀行が実質的拘束力をもつ窓口指導によって市中銀行の貸出を増加させたことだ(196-214頁)と書かれている。この説が本当だとすると、バブル期にお金をもっていた人々が消費ではなく投資をした理由も理解できる。つまり、銀行から借りたお金は必ず増額して返さなければならないから、人々は単なる消費ではなく、より確実な投資に使うしかなかったのだ。
ここで重要なのは、人々のお金の使い方によっては、大きなデフレ・ギャップがあったとしても限定的もしくは全般的なインフレが起こり得るという事実である。
そもそもインフレとは物価の上昇のことで、物価とは何かを考えてみれば、難解な数式を使うまでもなく、物価=需要/供給だ。もちろん、需要や供給が何の関数であるかを数学で使って解き明かそうという試みは面白いが、ここでは必要がない。
人々がインフレと聞いて恐れるジンバブエで起きたようなハイパーインフレは、全般的なインフレと言える。これは国中のすべてのものの価格が上昇する現象だから、すべてのものの供給のみの急減か需要のみの急増、またはその両方が起きた場合である。
一方、限定的なインフレとは特定のものの価格だけが上昇する現象で、そのものの供給のみの急減か需要のみの急増、またはその両方が起きた場合である。バブルと呼ばれるものは限定的なインフレであることが多く、株や土地の需要が急増して価格が高騰しても、必ずしもその他のものの価格が同様の率で上昇するわけではない。また、疫病や天候不順などで特定の作物の供給だけが急減したとき、その作物の価格のみが高騰し、その作物に関係の薄いものの価格上昇率はそれ程でもない。
翻って、《政府の貨幣発行権を行使して調達する資金》で震災からの復興事業を大規模に行った場合にインフレが起きるかどうかを考えてみよう。答えは《人々のお金の使い方による》だ。
先に記したように、人々のお金の使い方によっては、大きなデフレ・ギャップがあったとしても限定的もしくは全般的なインフレが起こり得る。確かに1998年から日本のGDPデフレーターは現在まで連続して下落しているし、消費者平均物価指数も高止まりしているとはいえ2008年から低下傾向にあるから、日本経済はデフレ状態、すなわち全体的に需要<供給の状態にあると言えるが、復興事業で投入されたお金をどのように使うかは人々次第なので、人々が供給のあまり多くないものばかりを買ったらそこで限定的なインフレが起きるし、株などを繰り返し売買するのにお金を使い、今まで銀行預金として眠っていたお金までが働き出せば全般的なインフレが起きるかもしれない(注13)。反対に、人々がお金を供給過剰なものに使用したり、ほとんどを貯金した上に銀行がそれを上手く活用できなければインフレは起きない。実際、バブル期以前と違って、日本の銀行は支払準備率というよりBIS規制(国際行の自己資本比率8%以上)と金融庁による自己資本比率規制(国内行の自己資本比率4%以上)に縛られているから、預金が兆円単位で増えたとしても簡単に良い運用先を見つけられるわけではない。
さて、兎にも角にも《政府の貨幣発行権を行使して調達する資金》で復興事業を行った時にインフレが起きるかどうかは、人々のお金の使い方によるのだ。つまり、限定的もしくは全般的な行き過ぎたインフレの可能性を完全に否定することは出来ない。ましてや、数年の間に毎年40兆円から50兆円規模の公共事業を行うとしたら、なおさらである。
しかし、私は政府の貨幣発行権を活用すべきでないと言っているのではない。政府がこの権利を活用しないのであれば、それは兌換通貨制度を採用していた時と同じで、税金か借金か資産売却という手段のいずれかでしか財政政策を行えないから、資産売却以外の手段では国民に直接的な金銭負担を強いることになる。今回の東北大震災のように、長引くデフレ不況の中で発生した更なる国民の損害を回復するには、直接的な金銭負担のない政府の貨幣発行権の活用が必要なのだ。これを使えないのであれば、日本は日本国憲法制資本主義の採用する管理通貨制度の恩恵を十分に受けていないと言っても過言ではない。
では、どうすれば政府の貨幣発行権を活用できるのだろうか。先ほどの議論から分かる通り、政府の貨幣発行権によってある金額が新たに市場に投入された際に、人々がいくらの金をどのように使うかなるべく正確に予想できれば良いのである。
ただし、その作業は非常に困難であるばかりか、どこまで突き詰めても予想の不確実性は取り除けず、いざ政府の貨幣発行権を活用した時に予想外の激しいインフレが起きてしまっては様々な問題が発生する。もちろん、激しいインフレによって物価が高騰するという問題は言うまでもなく、国債の含み損を恐れて投資家が国債を売りにでるため、既発国債の価格の暴落と新規国債の金利が上昇し、金融機関や企業や個人が連鎖的に倒産、破産する可能性があることは、政府財源の国債による調達で起こり得る弊害として既に本節で説明した。
そこで、最初に税金と政府の貨幣発行権を活用して国内の全銀行を国有化することを本論文では提案したい。そうすれば、それらが保有する資産としての国債と政府の負債としての国債が相殺され、国債残高問題を一気に解決するだけでなく、銀行の信用創造量を正確に制御することが可能となるため、貨幣発行権の活用やその他の要素でインフレが予想される際の変動幅を小さくできるようになる。また、銀行が政府の無限の財源と一体化するため絶対に潰れなくなり、日本の金融界および産業界は極めて健全で安定したものとなる。この国内全銀行国有化政策については三章で詳しく述べる。
次に、市場における政府と銀行の役割について論じる。まず、市場とは所有物の交換が行われる場所であることは二章一節の終わりで述べた。そこでは、自分以外の参加者にとって価値のある所有物を提示できて初めて交換が成立する前提が生まれる。したがって、最も他者にとって価値のある所有物を提示できた者には、交換を通じて最も多くの所有物を手に入れる機会が与えられる。交換にお金が使われようと使われまいと、人々には先天的および後天的能力の違いがあるため、どんな市場でも多くの価値ある所有物を提示できる者とそうでない者が必然的に現れる。この差が獲得できる所有物の差、つまり貧富の差となって現れるのだ。この能力の差からくる貧富の差に介入するのが政府と銀行だ。それぞれがどのような介入をするかによって貧富の差は広がりも縮まりもする。政府と銀行の持っている調整手段、すなわち市場の参加者の自由と平等を制限する方法は様々だが、本論文で扱いたいのは政府による税金徴収と貨幣発行権の活用、公共事業の発注、そして銀行によるお金の貸し付けだ。
まず、第一に税金について論じたい。二章一節の終わりで述べたように、税金には人々が使う通貨を決定するという大きな役割がある。税金を徴収することによって、政府の属する国の市場では統一されたお金が使われ、政府がもっとも多くの価値ある所有物=お金を提示できるため、政府が市場を通じて絶大な権力を獲得維持し、人々を支配するのが非常に容易になるのだ。そして、政府は力を削ぎたい者の税金を重く、力を与えたい者の税金を軽くするだけでなく、徴収した税金を人々に再配分することで力の再配分を行うことができる。交換におけるお金の使用から、人々が所有するお金の価値に基づいて人々の自由と平等が制限されるようになったのだから、政府が税金でその配分を変えてやることで力の配分、すなわち自由と平等の制限を行えることは驚きに値しない。政府の方針が貧富の差の縮小ならば、富者からより多くの税金を取り、貧者のためにより多くの税金を費やせばよい。政府の方針が貧富の差の拡大ならば、その逆をやればよい。いずれにせよ、能力の差と貧富の差を政府の方針に従って連動させる効果をもっている。
第二に、貨幣発行権の活用について述べる。政府は日本国憲法という権力を価値の担保として貨幣を無限に発行する権能を持つことは先に論じた通りだ。これによって、政府は選んだ人々のみにお金という形で力を与えることができる。政府が貧富の差を縮めたいと思えば貧者に、広げたいと思えば富者にお金を与えればいい。つまり、貧富の差を能力の差に関係なく調節できるのだ。
第三に、公共事業の発注について述べる。政府は税金や借金や自己資本によって公共事業を発注し、特定の人々に彼らの所有物とお金を交換する機会を与えているだけでなく、個人単位ではとても交換できないような性質の財を生み出すことで、人々に政府の権力の必要性や正当性を認識させる役割を持っている。そして、公共事業の財源が銀行からの借金や政府の貨幣発行権の活用によって捻出されたとき、国全体に存在する自国通貨量が増加するので、経済規模と通貨量を同時に調節できる。貨幣発行権の活用との違いは、公共事業がお金と事業者がもつ所有物の交換を求めるところだ。したがって、貨幣発行権の活用と違い、能力の差に応じた貧富の差の調整になる傾向が強い。
第四に、お金の貸し付けについて述べる。銀行は政府と同様にお金を作り出すことができるが、政府との決定的な違いは、作り出せるお金がすべて負債を担保に発行されており、その発行額にも限度があるということだ。政府と違って、銀行は誰かにお金をただ与えるということはしない。代わりにお金を貸し付けるのだ。お金を借りた人々は同時に負債を負っていて、その額は借りたお金より銀行が決める金利の分だけ多い。したがって、能力のある人は市場を通じて所有するお金を増やし、負債を返済することができるが、能力のない人は市場を通じて所有するお金を減らし、負債を返済することができなくなるのだ。つまり、銀行は能力の差によって生まれる貧富の差を拡大することができるのだ。さらに、銀行は誰にお金を貸し付けるかを選ぶことができるため、潜在的能力がある人に銀行がお金を貸さなければ、その人の能力が顕在化するのを妨げることができる。これは、どれだけお金を持っているかで人々の自由と平等を制限する資本主義社会だからこそ生まれる事象だ。つまり、人の潜在的な能力がお金による規制をうけて顕在化するかどうか決まるのだ。また、銀行が発行できる負債に基づくお金の限度額は政府や国際的な取り決めによって決定されるが、重要なのは、どれだけのお金を誰にいくらで貸し出すかは完全に銀行の任意ということだ。ゆえに、銀行は発行するお金の量と金利を調整することで、人々がうけるお金に基づく自由と平等の規制を恣意的に操作し、能力の差によって生まれる貧富の差を調整できる。
さて、人々に先天的および後天的な能力の差があるのは仕方のないことだが、市場原理、つまり能力のある者がより多くを所有するという制限だけに従っていては、貧富の差によって潜在的な能力が顕在化せず、さらなる顕在的能力の差を生み出し、貧富の差が拡大していかざるを得ない。
私は、他者にとって価値のある所有物を提示する能力のあるものが多くを所有するということには賛成だが、その程度に制限をかけなければ社会全体として潜在的な能力を生かし切れず、長期的には非効率だと考える。
したがって、政府と銀行が先述のお金を操る4つの手段を上手く組み合わせることで、人々の潜在的な能力を極力引き出すと共に、貧富の差を縮めるように調整するのが最も良い。そのためには、政府と銀行の足並みを揃えなければならないのは明らかだろう。もしも、政府が力を削ごうとする者に対して銀行が力を与えてしまったら意味がないし、政府が力を与えようとする者に銀行がさらに力を与えたら行き過ぎた介入になってしまう。また、貨幣発行権の行使によって政府が通貨供給量を増加させると銀行が発行できるお金も増加するので、そのお金をどう使うかによって政府の意図が歪められてしまう可能性がある。実際、現在の銀行は営利団体の企業であるから、その興味関心の中心は、国民の潜在能力を引き出すことや貧富の差を調整することではなく、自身のお金を増やすことにある。もちろん、銀行が自身のお金を増やそうと思えば、お金を貸したら増やして返してくれる能力のある相手を探すから、その意味では国民の潜在能力を引き出そうとすると言えるが、銀行経営が厳しくなってくると、安定して借金を返済してくれる顕在化した能力をもつ者ばかりにお金を貸しがちになるので、この機能も上手く働かなくなってしまう。この点でも、すべての銀行が国有化されて政府と一体となれば銀行の経営が厳しくなるということはない。そもそも、政府が無限の貨幣発行権を持っている限り政府の財源は無限だから、政府の財政問題は本来存在しない。そして、その政府と銀行が一体になれば、銀行の財政問題も存在しなくなるのだ。このことから、政府が財源確保のために国債を発行しすぎて自国の経済を危機に陥れるなど、愚かの極みであることも理解できるだろう。
政府と銀行が自国の市場に関して抱える唯一の問題は、如何に市場を調整すれば人々の潜在的な能力を引き出しつつ、貧富の差を縮められるのかというものであるべきなのだ。そうするためには結局、私と同じように政府と銀行によって適度に調整された理想の市場環境を求める国民が、政府と銀行をその国民の意思に従わせる必要がある。そうすれば、日本政府の抱える国債残高問題も一気に解決するし、貧富の差も縮小に向かうだろう。三章では、日本政府の全銀行国有化政策とその補完政策がどのような効果をもたらすのかについて論じる。なお、それらの政策を実行しようとする際に国民や政府が直面する権力対立についてはあとがきに記す。
注釈
(注11)通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和六十二年六月一日法律第四十二号)第2条。また、同条第2項により「一円未満の金額の計算単位は、銭及び厘とする。この場合において、銭は円の百分の一をいい、厘は銭の十分の一をいう。」と定められている。
(注12)論文の詳細は参考文献に記載。
(注13)たとえば、30兆円の復興事業が行われ、事業者が手に入れた30兆円をそのまま株式に投資したとする。すると、もしも投資された企業が30兆円すべてを何かの財購入に充てたのなら、ここで30兆円分の経済効果が発生したことになる。また、事業者が手に入れた株式を誰かに31兆円で売却し、その31兆円を何かの財購入に充てたのなら、ここで31兆円の経済効果が発生する。ここまでで30兆円から合計61兆円の経済効果が創出されており、人々がこのような取引を繰り返せば大きな経済効果になる。株式の売買によって保全資産として眠っていたお金が市場に引っ張り出されたのだとすると、乗数効果の対象となる額が30兆円から61兆円に増加している。このように、最初に投入されたお金がいくらであっても、その使われ方によっては大きな需要を創出し、それが行き過ぎるとインフレになる可能性もある。特に、株や土地などを人々がよい資産運用の対象だと考えた場合、それまでお金として保全していた資産が株や土地に換わり、お金は別人が使って更なる経済効果を生むかもしれないのだ。